コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。
クレジットカード 比較
[編集] 帝国の分裂
395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。
カードローン 比較
当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。
エステサロン
そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。
ヘッドハンティング
[編集] 西ローマ帝国
詳細は西ローマ帝国を参照
履歴書
ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。
資産運用
[編集] 東ローマ帝国
詳細は東ローマ帝国を参照
視力回復
東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。紆余曲折を経ながらも、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでの1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。
おまとめローン
[編集] ローマ帝国の継承国家
西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。しかしフランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した。ここに神聖ローマ帝国が誕生し(ただしこの名称で呼ばれるのは後世になってからである)、1806年まで継続した。
東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国スルタン・メフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化のオスマン帝国への導入を嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
ロシア帝国はローマ帝国の後継者をもって任じ、ロシア皇帝を自称するも、国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝と認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味あいは忘れ去られていた。
[編集] ローマ帝国の滅亡
ローマ帝国という名称を名乗る国家は1806年の帝国解散の詔勅による神聖ローマ帝国の滅亡までの存続しているが、既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており、帝国解散の詔勅自体がドイツ帝国の名で出されている上、旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない、自称ローマといえる。また7世紀以降の東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に入っている。そのため単に「ローマ帝国」と言ったときには、476年の西ローマ帝国の滅亡を以ってローマ帝国の終焉とするのが一般的であが、単に同一国家の連続性としてみた場合は、東ローマ帝国と分裂以前のローマ帝国は断絶なく連続している政体であるという事に加え、西ローマ帝国側からも同じ国家として見られていたこと等から、東ローマ帝国の滅亡により終焉したと考える事も出来る。
[編集] 歴代皇帝
ローマ皇帝一覧を参照
[編集] 脚注
[ヘルプ]
^ 表記は東ローマ帝国の滅亡年。395年(ローマ帝国が東西に分裂)や476年(西ローマ帝国の滅亡)を亡国年と見做す場合もある
^ a b c d e f Rein Taagepera (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 125. DOI: 10.2307/1170959.
^ John D. Durand, Historical Estimates of World Population: An Evaluation, 1977, pp. 253-296.
^ ラテン語の「Imperium」は、英語においては一般に「Empire」という訳が当てられるが、これも同様に皇帝の存在を前提にしない。ドイツ語訳の「Reich」の場合はもっと広範囲の意味があり、和訳する際に「帝国」の語を充てない場合がある。
^ 皇帝僭称者を含めるとその数は更に増える
[編集] 関連項目
共和政ローマ
SPQR
ローマ軍団
カール大帝
神聖ローマ帝国
オスマン帝国
皇帝属州
元老院属州
ローマ建築
[編集] 参考文献
ギボン著(中野好夫ほか訳)『ローマ帝国衰亡史』筑摩書房、全11巻。
塩野七生『ローマ人の物語』新潮社、第6巻〜(歴史小説であり想像・創作部分もあることに留意)
[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ローマ帝国 に関連するカテゴリがあります。ローマ帝国史略
ローマ帝国
参考:古代ローマ ・ ローマ皇帝一覧
元首政 3世紀の危機 専制君主制 ローマ帝国末期
ユリウス・クラウディウス朝
4皇帝の年
フラウィウス朝
五賢帝
5皇帝の年
セウェルス朝
6皇帝の年
軍人皇帝
--------------------------------------------------------------------------------
ガリア帝国
パルミラ王国
テトラルキア
コンスタンティヌス朝
ウァレンティニアヌス朝
--------------------------------------------------------------------------------
テオドシウス朝
--------------------------------------------------------------------------------
西ローマ帝国
--------------------------------------------------------------------------------
東ローマ帝国
→ (イタリア内)
イタリア王
→ (西ヨーロッパ)
神聖ローマ帝国
→ (東ヨーロッパ)
東ローマ帝国
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD" より作成
カテゴリ: ローマ帝国 | 帝国
ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合したもの、すなわち「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス大王(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。
目次 [非表示]
1 概念定義と批判
1.1 古代オリエント文化との融合
1.2 時代区分としてのヘレニズム
1.3 ヨーロッパ文明の源流
2 関連項目
[編集] 概念定義と批判